●デイヴィッド・グッドハート、外村次郎訳「頭 手 心 偏った能力主義への挑戦と必要不可欠な仕事の未来」実業之日本社、2022年
著者のデイヴィッド・グッドハート氏は、イギリスの総合評論誌「プロスペクト」誌の共同創刊編集者でありジャーナリストで、現在はシンクタンク<ポリシー・エクスチェンジ>人口統計部門の責任者を務めているとのことです。
本書のメインテーマは「地位の偏った配分」(P6)であり、「『手』(肉体労働や手仕事)と『心』(人の世話をする仕事=ケア労働)が、『頭』(認知能力を生かした仕事)にこの数十年間奪われてきた名声と恩恵を取り戻す方法はある。」(P6)という点にあります。(序文)
「第一章 頭脳重視の絶頂期」では、現在の頭脳重視社会の概要を描き出しています。
「この数十年間、欧米の民主主義社会は効率性、公正さ、進歩に関心を寄せるあまり、もっとも能力のある者だけが成功し、その他大勢は自分を落ちこぼれと思い込むような競争システムを構築してきたのだ。では、もっとも能力のある者とはどういう人間だろう?(一部略)人間の資質の一形態に過ぎない認知・分析能力-学校の試験に合格し、職業生活において情報の効率的な処理に資する能力-が人の絶対的な評価基準になっていた。」(P15)と頭脳重視社会の特徴が述べられます。
このような社会の進展により、「あまり価値の高くない学位しか持たないかなりの人々が、(教育ローンの返済がまだ残ったまま)高校修了レベル認知能力があればできる仕事に就いている。」(P30)といった問題や、「熟練を要する仕事の人手不足」(P31)や「『心を使う』仕事や、幼児教育や子供の世話の過小評価」(P31)が生じてきたとしています。
そして、「現在の政治がこれから10年の間に必ずや直面する、かなり大きな現実がある。中道左派と中道右派の二大政党は、大卒の中産階級向けの専門的で安定した仕事が、現代社会で今後も拡大し続けるのは自明の理だと考えてきた。教育政策も、社会的流動政策も、この推定を前提としていた。だが、それがまちがっていたのはほぼ確実である。知識経済は、知識労働者のこれ以上の供給増加を必要としていない。」(P42)と「頭」の仕事に限界があるとしています。
「第二章 認知能力が高い階層の台頭」では、イギリスとアメリカを中心に「認知能力の高い階層の歴史への出現とその選抜方法を考察」(P61)し、「第三章 認知能力と実力主義社会の謎」では、「認知能力とはいったい何なのか、どのように測るのか、どの程度が生まれつきのものなのか、実力主義社会や社会的流動性にとっての意義は何かなどの議論について考えていく。」(P61)とされています。「それに続く三つの章(第四章から第六章:筆者注)ではこの数十年間に教育、経済、政治の世界で認知能力の支配が強まってきた点について見て」(P61)いくとされています。
「第三章 認知能力と実力主義社会の謎」では、「IQテストで測定できる生得的な認知機能-知能研究者が<一般的知能>あるいは<g>と呼ぶもの-」(P83)について、「認知知能を研究する学者や研究者の大半は、<一般的知能>、つまり<g>はある程度まで生得的な、実在する能力であり、生態やその後の環境による影響の産物である、そして人によって<g>には差異があるが、その約50パーセントは遺伝子に原因があると確信している。彼らは<一般的知能>の正確な測定も可能であると考えている。」(P90)が、主流に近い懐疑論者は「<一般的知能>は広義の人間の能力のひとつの側面に過ぎない。IQテストはあまりの領域が狭く、断片的な内容ばかりで、現実の生活からあまりにも乖離している。したがって、能力という、とても複雑で社会環境に左右されるものをきちんと把握することはできない。」(P90)と主張しており、著者は後者の立場にたって「本書は認知能力にもとづく実力主義社会の限界について論じている。」(P90)と記しています。
「第四章 学ぶものを選抜する時代」では、「少なくとも富裕国では、ますます<頭脳重視>社会の極みに近づいており、これ以上多くの中等教育修了者を学術的な高等教育に導くのは政治的にも経済的にも不合理だ」(P130)としています。そして、仕事とその仕事に必要とされる資格とのミスマッチが大学卒で生じており、「経済の技能という基盤における明らかな『中堅の不在』と『手』を使う仕事の軽視によって、理系教科が関連する領域や熟練を要する職業、技師レベルの仕事における技能職の不足が深刻になっているのだ。」(P157)といいます。
「第五章 知識労働者の台頭」では、「大卒でない大勢の雇用者の地位が下落した過酷な現実」(P191)、「人々は技能も賃金も中程度の仕事を失い、彼らに残されていたのは低技能・低所得の仕事だけだった。」(P192)という近年の労働市場が描かれています。そして、大卒一般化が進展してきている分野の紹介の後、「大卒ではないが能力に長けた者にとっては、大卒一般化は二重の意味で打撃である。今や学位がないと昇進が難しい組織が多いというだけでなく、仕事で自分の代役が務まりそうもない人に蹴落とされるのが眼に見えているからだ。」(P213)と指摘しています。
「第六章 学位がものを言う民主主義社会」では、国会議員や政府職員では高学歴者が多くなっていますが、「認知能力の高い階層による政治支配については大きな問題がふたつある。第一のもっとも深刻な問題は、そうした階層は自分が広い公益を代表していると真摯に自覚しながら、自らの利益と直観を追求する傾向がある。第二の問題は、大学の学位は必ずしも政治で生きていくための最高の訓練ではない点だ。」(P226)といいます。また、教育程度による政策への関心や賛否の違い、政治を専門家に任せる姿勢による「教養ある人間の無知」(P237)や「技術官僚支配による非政治化」(P238)といった問題を指摘しています。
「第七章 『手』に何が起こったのか」では、アメリカの科学技術者のタラ・タイガー・ブラウンの「実践的な技能を学ぶと往々にして抽象的な科学や数学の理論がすんなり理解できるし、『実践』を学んでこそ、『本質』が理解できるのだ。」(P282)という主張を引用し、「手」の本質的な重要性を指摘します。しかしながら、熟練を要する手仕事が失われてしまってきた状況、熟練を要する仕事が「技術の変化によって完全に余分なものとなるか、単純作業化されつつある。」(P285)、徒弟制度、熟練を要する仕事の総合的な地位の低下等が語られます。
「第八章 『心』に何が起こったか」では、「広義の<人の世話をする仕事>」(P310)について、「ケータリング、清掃、人の世話をする仕事が(少なくとも経済面で)これまで過小評価されてきたのは、担い手の圧倒的多数が女性だったからだと言っても異論はないはずだ。」(P331)とし、世話をする仕事の将来に関し収入の職業による差、評価制度、高度な技能が求められる世話、成果のわかりづらさ等が指摘されます。また、「無償の家庭労働に価格をつけてGNPに計上する」(P351)ことで、「社会で今起こっている現実の、より正確な実像が明らかになり、無償の私的領域で続いている生産的な『心』の仕事を人々が理解し、重んじる変化につながるはずだ。」(P351)との指摘にはうなづけるものがあります。
「第九章 知識労働者の失墜」では、これまでの工業化社会経済や脱工業化社会経済が平均以上の認知能力を持つ、非常に有能な専門職の人をとにかく求めた等の理由により、「現代社会において、認知能力を地位と恩恵をもたらす中心的存在だった。」(P358)といいます。しかしながら、「ロボットと人工知能によるいわゆる第四次産業革命によって、『人間にはもはや認知能力を自由に発揮できる場がなくなる』(イングランド銀行でチーフ・エコノミストを務めるアンディ・ホールデンの発言)という。」(P362)そして、「ホールデンは、将来は認知能力、技術的能力、社会的能力、つまり、『頭』と『手』と『心』のバランスの改善が求められていると見ている。」(P365)とのことです。
21世紀の<デジタル・テイラー主義>は、「知識を体系化、標準化、デジタル化してソフトウエアのスクリプト、プラットフォーム、パッケージに移す。」(P368)とし、これにより「ブラウンとローダーはサービス業の仕事を三つのカテゴリーに分け、それぞれを『開発者』、『実演者』、『単純作業員』」(P369)と名付けたそうです。「『開発者』とは『自分の頭で考える許可』が与えられる上級研究者、管理職、専門職らをいい、(一部略)、『実演者』は第二レベルの専門職で、部分的に単純作業に従事させられているものをいう。例外なく大学卒だが、主な仕事は既存の知識の遂行である。(一部略)『単純作業員』は単純な仕事に従事し、思考力は期待されていない(一部略)。」(P369)というものです。
そして、近年では「知識労働者の減少・凋落が身近なところで起こっている」(P371)として、「大卒のイギリス人男性の三分の一が、大学に進学しても、事実上、所得増という経済的恩恵を受けていない。」(P372)、「OECDの<技能調査>によると、(一部略)全労働者のおよそ三分の一が『自分の技能は充分生かされていない』と答えている。」(P376)、イギリスの「<国家統計局>は『過剰教育』という概念を用いている。これは、仕事をするのに必要とされる以上の教育を受けていたことをいう。(一部略)大卒者のうち、過剰教育を受けていたのはおよそ31パーセント」だった。(一部略)大学院卒業者のうち、大学院卒業資格を必要とする仕事に就いているのはおよそ半数(51パーセント)。」(P377)、「現行の返済条件では、イギリスの大卒者の大多数は、ローンを完済するだけの収入は得られない。」(P379)といった様々な問題点が生じてきていることが指摘されます。そして、これらのことを考えると、「『高度な教育が個人に大きな恩恵をもたらし、経済に高い生産性をもたらす』という、ややシンプルな<人的資本理論>はもはや通用しないようだ。」(P381)と述べています。
「第十章 認知能力の多様性とすべての未来」では、「民主主義社会はきわめて優秀な者だけが成功して、それ以外はしくじるような競争の枠組みをつくろうとすべきではないのである。(一部略)能力至上主義と社会的流動性というイデオロギーが、大学出身の認知能力に秀でた集団の台頭に後押しされて、行く手を阻むすべてをなぎ倒した。競争は、イノベーションをもたらす場合や、堅固な経済的・政治的勢力に挑む場合には決定的な力となる。しかし、個人レベルでの過剰な競争や比較は人をいつも不安な状態におき、自分の期待と実力の見きわめ(本人の幸せにつながる、おそらく最適なルート)を困難にしてしまいかねない。」(P395)
また、これからの難題である気候変動や地球の未来、DNAの操作による認知能力の改変等といった複雑な問題へ対処していく上では、イギリスの有力な評論家のマシュー・サイドが指摘する「認知能力の多様性」(P399)が重要としています。
そして、大卒者に対する所得優遇の減少といった「頭」の仕事に対する恩恵が大きくなり過ぎたことに対する「市場原理による調整」(P404)、「心」の仕事としての看護・介護といった「世話をする仕事の地域の引き上げ」(P413)や「頭」と「心」を使う仕事である「小学校の教師」(P417)、「自分の一部となって離れないような」(P420)「技能」を身につける方向性、真価を認められるようになった「分野を超えた知識(19世紀の教養人の象徴であった『万能型モデル』)」(P425)など、「頭」と「手」と「心」の方向性に多方面からの検討がなされます。
最後に、「知恵は謙虚さ、多様性、歩み寄りを重んじる」(P431)。この3つはワンセットである例として、『スタートレック』におけるスポックの知性、マッコイ船医の天性の共感力、カーク船長の実践的な決断力」(P431)があげられています。ひとりだけでは知恵が足りないが、「知恵は、三人の(時には張り詰めた)ことばのやり取りから生まれるのだ。」(P431)と「頭」と「手」と「心」の調和こそが重要だとしています。
認知能力が重要視し、それを増大させる方向での教育が推進されてきた状況について、主としてイギリスの状況(アメリカやEUへの言及もありますが、限定的)に基づく書籍です。大卒者の増加により、大卒者が学部卒の過剰学歴の状況や所得の恩恵を受けられないといった諸問題が生じていたり、今後デジタル化等が進展すると、「自分の頭で考えることが許可される」従業員は一部に限られるようになるといった事態が生じてくると予想されるとしています。それに対し、これまで社会的な評価が十分になされてこなかった「手」や「心」の仕事のあり方、私たちの労働と職業生活における今後の生涯学習のあり方など、見直しの方向性が提示されています。
本書を読んでいて、わが国と共通する問題をイギリスでも同様に抱えており、様々な取り組みが始められていることも知ることができました。本書を通じて知りえたイギリスでの取り組みやそれをベースとした諸外国の例などを参考に、私たちも自分の子どもやその子たちがどのようなことを学び、どのような働き方をしていくのか、といったことを考えるきっかけになりました。
本書の中では、自由市場における競争に関して、「個人レベル過剰な競争や比較は人をいつも不安な状態におき、自分の期待と実力の見きわめ(本人の幸せにつながる、おそらく最適なルート)を困難にしてしまいかねない。」(P395)という指摘がありましたが、いろいろと考えさせられました。市場原理における競争は、そもそもは企業間で行われるものであったものが、様々な場面に競争原理が導入されてきており、本来競争する関係にない主体や場面にも導入されていることもあるのではないか、と思いあたるところがありました。この点については、今後とも考える材料を集めてみたいと思いました。
【目次】
序文
第一部 今の社会が抱える問題
第一章 頭脳重視の絶頂期
第二章 認知能力が高い階層の台頭
第三章 認知能力と実力主義社会の謎
第二部 認知能力による支配
第四章 学ぶものを選抜する時代
第五章 知識労働者の台頭
第六章 学位がものを言う民主主義社会
第三部 手と心
第七章 「手」に何が起こったのか
第八章 「心」に何が起こったのか
第四部 未来
第九章 知識労働者の失墜
第十章 認知能力の多様性とすべての未来
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